小池英文  流々日記
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放浪か。遁走か。 流れる愉楽、変わる悦楽。
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写真展終了
写真展には予想をはるかに上回る大勢の方々にお越し頂き、感謝の気持ちでいっぱいです。

一人ひとりの方々とゆっくりお話をしたかったのですが、私の手際の悪さもあってそれもかなわず、この場を借りて深くお詫び申し上げたいと思います。

自分のなかでは反省点ばかりが目につく展示でしたが、石川梵さんがご自身のtwitterの中に次のような感想を記して下さいました。



『 昨日小池 英文さんの写真展「海と人のあいだ」を見た。浪間で、戯れ、祈る人々の姿が冥界を漂うようでもあり、彼岸と此岸を行き来するようでもあった。インドの深く淀んだ世界が不思議な透明感をもって描かれていた。撮りつくされた感のある印度だが、まだまだ新しい表現の可能性を感じた。

ご本人に聞くと、3.11直前に撮った写真だが、それ以降でまたかなり写真のセレクトが変わったという。写真からそんな印象を受けたのはそのせいかもしれない。ただ、私が時間がなく、あまりじっくり見て、お話しすることができなかったのが残念だった 』



写真展は貴重な意見や指摘を受けることができる場ですが、このような言葉を頂戴するとたいへん励みになるものです。

石川梵さんといえば、現在は吉祥寺美術館で「The Days After-東日本大震災の記憶」を開催中。そして、来月からはキャノンギャラリーで「人の惑星(ほし)」展がはじまります。
そのようなご多忙な中、わざわざ足をお運びいただき本当にありがとうございました。また、2012年度日本写真協会作家賞受賞、心よりお喜び申し上げます。

それにしても、このtwitterをリツイートして下さった「風の旅人」の佐伯さんをはじめ、本当に多くの方々との出会いによって自分の活動が支えられているのを実感せずにはいられません。

これからまだまだ暗中模索の日々が続きますが、進路を見定めじっくりと進んで行ければと思います。


# by koikehidefumi | 2012-04-24 23:58 | Trackback | Comments(0)
春
早いもので写真展まであと一週間。
今日の午後、大判の写真にパネル加工を施して製作はほぼ終了だ。
久しぶりに早朝の散歩に出ると、桜の花が満開になっている。
自分の作品と向き合う日々を終え、気持ちを外向きにカラリと切り替えてゆきたいものだ。


# by koikehidefumi | 2012-04-07 06:45 | Trackback | Comments(0)
その島へ、この河を下って_02
 そして打ち寄せる波は、彼岸というもうひとつの世界がそこに広がっていることを伝えてくれたことだろう。また波根に頭を打ち付ける人々は、その大きな生命の流れのなかに自分の生命を結びつけようと試みているのかもしれない。
 彼らは神話を架け橋にして、遠い自然を人間の世界に引き寄せてきた。
 一本の水の流れを「ガンジス」と名づけ、意識の交流をはかろうとしてきた。
 それは荒ぶる自然を畏れ続けて生きてきた人間の、魂の技術ではなかっただろうか。そして祈ることは、何かを願うのではなく、耳を澄ましてその声を聞くことではなかっただろうか。

  海に祈りを捧げ続ける人々を眺めていると、そんな想いが日々膨らんでゆく。



# by koikehidefumi | 2012-03-31 16:38 | Trackback | Comments(0)
その島へ、この河を下って_01
 ひとつの神話を内包する海に通いはじめて十二年の時が過ぎた。 
 ガンガサガール島。
 そこはガンジス河が海に到達する最後の聖地だ。



 なだらかに傾斜する遠浅の海を沖へ向かって歩んでゆくと、そのまま別の世界につながってゆくような奇妙な開放感が心に広がってゆく。
 とくに冬の朝、水面の薄靄が陽の光に滲むとき、いま自分は神話が生まれる場所に立っているという確信に包まれてしまう。

 海には多くの人々が訪れる。
 泳ぐため、釣るため、潜るため、バカンスを楽しむため、人が海へ向かう理由はさまざまだろうけれど、人は祈るためにこの海にやってくる。遠い昔から繰り返され、そして未来へつながってゆくその祈りの風景に包まれていると、時間のスケールがいまを飛び越え、永遠の一瞬に自分が立ち会っているのが実感されてくる。川の流れが海にそそぎ、やがて陽の光に暖められて空へ昇り雨となって降り注ぐように、人も生と死を繰り返しながら今日まで生命を受け渡してきたのだ。

 その連綿と続く生命の流れの中で、人はいつも自然に問いかけ続けてきた。息をつめ、耳を澄まし、目の前の自然とその背後にはがれる精妙な理に気を配り続けてきた。
 それが自分たちの生存を支える唯一の手だてだと気づいていたのだろう。
 陽の光は生命を育み、雨が大地を潤すことを人は学んだ。
 また月は生命のサイクルを、死者は見えない者の存在を教えてくれたことだろう。

# by koikehidefumi | 2012-03-30 21:48 | Trackback | Comments(0)
セレクトから漏れた写真を
写真展までおよそ2週間。
写真のセレクトもほぼ終了した。

ここのところずっと自分の写真を見直していたわけだけれど、見れば見るほど自分の力量不足が浮き立ってきて、正直なところ少々げんなり気分。人によって違うのだろうが、自分の写真や文章とまっすぐ向き合うのは結構苦痛だ。とはいっても、そこから学んでゆくしか新しい自分と出会うすべがないのも確かだろう。

だから、作品は生涯にわたる中途報告のようなもの。
そう定義させていただき、できる限り多くの方々に写真展に足を運んでもらい、ご意見が頂戴できれば幸いです。

そんなわけで、ブログももう少しマメに更新していかなければと思案中。
セレクトから漏れた写真を中心に少し継続してゆければいいのだが。



# by koikehidefumi | 2012-03-29 09:39 | 写真展・美術展 | Trackback | Comments(0)
写真展!!!

久しぶりの更新です。
まだ一ヶ月以上先ですが、写真展を開催することになりました。
以下、詳細です。

〈会場〉
 コニカミノルタプラザ

〈日時〉
 2012年4月14(土)〜4月23日(月)
 10:30〜19:00(最終日は15:00まで)
 無休 入場無料

〈企画趣旨〉
聖なる大河が海と出会う場所。ガンガサガールはガンジス河口に浮かぶ小さな島だ。
かつてガンジス源流から河口まで一年あまりかけて旅したことがある。それ以来この島の神話的風景に魅せられて、再訪を重ねて十年以上が経つ。
河に比べて海辺の沐浴は躍動感に富むものだ。
人々は打ち寄せる波に身を投げ出し、頭をすりつけ、歓喜の声を放つ。それは海に生まれた生命の記憶が、打ち寄せる波に呼応して、喜び勇んでいるようにすら感じられる風景だった。

そして2011年3月11日、東日本を襲う津波の様子を見つめながら、まず思い起こされたのがガンガサガールの風景だった。TVに映る海の猛威に目を剥きつつ、あの沐浴風景を、「自然を崇める敬虔な人々」などと今さら安直な言葉で括ることはできないと感じた。

ではなぜ、彼らは一心に海に祈るのか。歓喜に身を震わすのか。
After The Flood —大洪水の後で、私はそれをもう一度問い直してみたいと思った。
(プレスリリースより)





# by koikehidefumi | 2012-03-06 21:19 | Trackback | Comments(0)
12/7 森永純さん
来年の四月、新宿のコニカミノルタで写真展をやらせてもらうことになった。
連絡をもらってすでに一ヶ月以上が経つので、展示デザインについて色々と考えを巡らせているのだが、どうもすっきりしない。

理由は簡単。
作品がいまひとつ足りないのだ。
テーマは今度も「水」。それも「波濤」が基軸。

そこでおりをみて自分の作品を眺め回しているのだけれど、首をひねりつつ最後にいつも頭に浮かんでくるのが、森永純さんの「波」の写真だ。



上のような写真を眺めていると、時間が経つのをつい忘れてしまう。
それはたしかに「波」なんだけれど、眼を凝らすと生や死や時間や宇宙的記憶といったものが波の背後から沸き出してきて、激しく揺さぶられてしまう。

「見えないものを見えるようにする」と言ったのはパウルクレーだ。
 だが、絵画と違って写真には見えないものは写らない。
本物の写真が開示してくれるものとは、見えていても普段は見落としてしまうもの、日常の背後に横たわる根源的な事象、それを改めて気づかせてくれるところにあるのではないか。
とすれば、それをもっとも強くぼくに働きかけてくるのが森永さんの写真だ。

そんな理由からここ数週間氏の写真が頭からずっと離れないでいたのだが、先週末のこと、ある会に足を運んだら、なんとそこでご本人とお会いする機会に恵まれた。出会いとは本当に不思議なものだ。
といっても、せっかく紹介していただいても、緊張のあまり、「大ファンなんです」などと口走ってしまう始末だったけれど…。

森永さんの写真は、「河」と「波」のシリーズがとても有名だが、それに加えて、「水滴の風景」という現在進行形のシリーズがある。2年前のエプサイトでそれをいくつか拝見したとき、その神々しいまでに澄み渡った世界観に写真の前から動けなくなった。いまわの際が写っている。どうすればあのような曇りなく透明な眼差しを獲得することができるのだろうか。

「たしか二年ほど前、エプサイトで水滴の作品を拝見したんですが、今後発表されるご予定は?」
そう尋ねると、少し照れたように苦笑しながら、
「なかなか思うように進まなくて…」
と深々と腰を折られた。

デジカメで1000枚のオーダーを一日にこなす時代のなかで、恐縮したように苦笑するその姿に触れたとき、一枚の写真の重みを改めて突きつけられたような気がした。作品が足りない? ならばさらに撮ればいいんじゃないでしょうか。そう問われているような気がした。

どのみちいくら作品を眺め渡しても、写真が生起してくるわけでもない。
四月の写真展に向けて、年明けからまた旅に出てみようと思う。

# by koikehidefumi | 2011-12-07 07:25 | Trackback | Comments(0)
11/25 藤原新也展
妻と子供たちを連れて藤原新也「書行無常」展にゆく。
小学校の廃校を利用した大規模なスペースに大判の写真と書が並ぶ。
今年の春に銀座で開かれた「死ぬな生きろ」展がつつましく滋味に富んだ作品群で好印象だっただけに、今回の力技のような展示にはどこか肥大化した自我のようなものが感じられてしまい、なかなか興が湧いてこない。

会場内をうろうろしていると、とくに藤原ファンでもない妻が興奮気味にいった。
「すごいエネルギーねぇ!」
たしかにすさまじいエネルギーだった。
芸術という鼻持ちならないカテゴラリーをぶち壊すような奔放さが会場全体にみなぎっている。

今春の「死ぬな生きろ」展の枯山水のような展示から、今回の俗物的パワーまで、この振幅の大きさこそが藤原という表現者の真骨頂であることを改めて実感した。

きっと家族とともに行ってみようと思ったのも、今回の展示が芸術という枠組みを超えて、一生をひたすら真摯に遊び続けようとする希有な人間の生きざまを見せることができるのでは、という予感があったからかもしれない。


# by koikehidefumi | 2011-11-25 06:36 | Trackback | Comments(0)
8/31 瀬戸内めぐり-3
毎年8月末に行われる水軍祭りの練習の様子。
それを眺めながら、古代史に現れるアゾミ族のことをふと思い出した。
遼東半島から琉球へ、そして奄美を経て瀬戸内にも漂着したと思われる海洋民族。大陸性弥生文化とは異なる、縄文へつながるもうひとつの日本文化の源流を生成したのは、もしかしたら彼らだったかもしれない。


# by koikehidefumi | 2011-08-31 19:24 | Trackback | Comments(0)
8/29 瀬戸内めぐり-2
瀬戸内にはデジカメではなくローライ一台のみを持っていった。

いまや世界中からリアルタイムに映像が送られてくる時代に、瀬戸内から東京に戻り、フィルムを現像し、数枚ずつスキャニングし、ようやくこうしてアップロードに漕ぎ着けるというのも、おそろしく気長な話に感じられてしまう。

デジカメになって何が一番変わったかと言えば、画質云々よりもそのスピード感にあるような気がする。
撮った瞬間に画像が確認できるのはもちろんのこと、うまくすれば当日のうちに納品さえもできてしまう。
もちろん、それは悪いことではないのだろうが、時々、思考のプロセスを省かれているような心許ない感覚が頭をもたげてしまう。

写真はシャッターさえ押せば誰でも簡単に撮れてしまうものだ。
しかし、深みのある写真と薄っぺらな写真とでは歴然とした違いがある。
その違いは、おそらく作品が内包する時間の厚みにあるのではないか。
そんなことを思いながら、瀬戸内ではローライのシャッターをゆったりと切る日々だった。


# by koikehidefumi | 2011-08-29 23:32 | Trackback | Comments(0)
8/25 瀬戸内めぐり-1
瀬戸内をしばらくめぐって昨日東京に戻ってきた。

島というのは人間の生活様式や行動形態が純粋に温存されていることが多いもので、たとえば沖縄とか、あるいは先日世界遺産に登録された小笠原とかはそれが顕著に見てとれる土地だろう。

もちろん瀬戸内の島々からもそれは十分に伝わってきた。

都市化した社会の中ですでに摩耗してしまった本来のみずみずしさやあたたかさがいまも息づいているように思われたのだ。

これまでどこか機が熟さない気がしてきちんとレンズを向けてこなかったけれど、今回の滞在では気持ちが開いてゆく瞬間があった。

これから少しづつ瀬戸内の島々へと気持ちを漕ぎだしてゆけたらいいなと思う。

# by koikehidefumi | 2011-08-26 23:43 | Trackback | Comments(0)
8/9 インドへの道vo2. ?!
7/28のブログに記した「インドビザ申請センター東京」の前をさっき通ったところ、ビザの発給を待つ人々が長蛇の列をつくっていた。夏休みということもあるのだろう、若い学生風の姿が多く目についた。若者が海外に出なくなって久しいと言われているが、もともとニッチでコアなファンを獲得してきたインドのこと、流行に左右されることもあまりないのかもしれない。

義理の妹も我が家に数日滞在したのち、大きなバックパックを担いで元気にインドへ旅立っていった。
およそ半年間のインドの旅を予定しているという。
なにかアドバイスをと尋ねられて、あまりお節介をやくのも気が引けたので、ひとことだけ提言をした。

「地球の歩き方には載っていない町や村にもぜひ足を運んでほしい」

ぼくの中には二つのインドがある。
地球の歩き方に紹介されている土地とそれ以外の土地だ。出会う人も、食堂のメニューも、言語も、これは決して大袈裟ではなく、それぞれの違いは国の違いに匹敵するほど大きいとぼくは思っている。

とにかく一歩踏み込んでみてほしい。それに必ず応えてくれるところがインドという国の懐の深さだ。きっとかけがえのないまなざしで出迎えてくれることだろう。


# by koikehidefumi | 2011-08-09 17:37 | Trackback | Comments(0)
8/5  森の時間
数日のあいだ所用で日光に行っていた。
あれはたしか滞在2日目の朝だったか、福島沖を震源とする地震があって、日光も震度5の揺れに見舞われた。震度5といえば3.11のときの東京と同じだ。不安を感じて目覚めてしまったのも無理もないことだろう。

いま思うと、3.11のときよりも、今回の揺れの方がはるかに恐ろしく感じたような気がする。
3.11のときは揺れそのものに恐怖を感じたわけではなかった。
揺れがおさまったのち、被災の規模を目の当たりにして、改めて身震いしたようなところがあった。
おそらく、今回の方が地震という自然災害に対して被害想定がリアルだったということだろう。ゴトゴトと突き上げるような揺れが続くあいだ、さまざまな不安が頭をよぎり続けた。家屋倒壊、原発、津波。そして、このような余震がいまも続く地域では、さきの大震災の傷跡が深いぶん、揺れに対する脅威もぼくなどの比ではないだろうと思った。

地震がおさまってひと息ついたとき、ふっとこの揺れが、東京を震源としたものだったらという考えが頭をよぎった。地震というと東北をつい連想してしまうが、東京直下型についてもいつ起こってもおかしくない。
そう考えはじめると、東京の家族や子供たちのことが気にかかりはじめた。ラジオをつけると、東京に被害がでている様子はないという。少し安心したものの、再び寝入る気にもなれず、少しあたりを散歩することにした。

早朝の森はしんと静まり返っていた。
いつもとなんら変わりはなかった。その泰然自若ぶりが、地震という異変に波立つ心にとても新鮮に映った。
新緑が芽吹き、倒木が横たわる。落ち葉が土にとけ、苔が鬱蒼と生い茂る。
そこには、人の一生など一瞬のまばたきに過ぎないほどの気の遠くなるような時間が流れていた。死を孕んで生け続ける大きな森の時間。その循環する時間の流れに身を包まれていると、地震もあるいは異変などではなく、自然界に組み込まれたひとつの現象であることが静かに伝わってきた。もちろん、だからといって、それで死の悲しみがすべていやされるわけではない。けれども、それに触れることによって、不条理な死に意味を与えることはできるかもしれない。
森の時間と私たちの時間。
神話や祭りや儀礼によって、かつて二つの時間はわかちがたく結ばれていたのだろう。それが遠く隔たりつつあるいま、この先二つを繋いでゆくものとはいったい何なのだろう。

そんなとりとめのないことを思いながら、早朝の森をしばらく歩き続けた。歩むごとに、地震で波立つ心が落ち着いてゆくのを感じた。

# by koikehidefumi | 2011-08-05 06:35 | Trackback | Comments(0)
7/28 インドへの道?!
広島に住む義理の妹がインドへ行くというので、ビザの代理申請に行ってきた。

ビザの申請といえば、以前は九段のインド大使館と決まっていた。
ところが、数年前から場所が変わった。
家の近所のインドカレー屋が模様替えをはじめたなと思っていたら、ある日とつぜん、何の因果か、そこに「インドビザ申請センター東京」なる看板が掲げられ、ビザの発給業務が行われるようになっていたのだ。

聞くと、ビザ関連の業務は大使館からすべてそこに移行したのだという。
申請も発給もいまは大使館では行っていないらしい。

ごくありふれたインド料理屋が、なぜ、とつぜん、政府の出先機関としてビザの発給業務を扱うようになったのか。
インドという国はつきあえばつきあうほど謎が深まるばかりだが、ただひとつ、たしかなことがあるとすれば、これでまたインドが少し近くなったということだろうか(笑)。

具体的には、家からビザセンターまでは徒歩にしてわずか五分たらずだ。
夕刻、建物の前を通ると、インドビザを新たに手にした人たちといつも出くわす。そして、インド行きを前にした彼らの表情がじつに面白くて、よくその場に足をとめてしまう。

パスポートに貼られたビザを確かめながら、期待に顔をほころばす女子大生風の仲間連れ。
神秘の国インドが現実味を帯びて少し不安そうな男子学生。
訪印回数は数知れずといったベテラン旅人風カップル。
どこか思い詰めた表情の悩めるフリーター風男子。

彼らの表情を眺めていると、人それぞれの旅の様子が想像されてまったく飽きることがない。
さらに、道端につっ立ってじっと胡散臭い視線を走らせていると、旅行者を騙そうと虎視眈々と狙う悪徳インド人のような気分もわき上がってきて、我ながら可笑しくなってしまう。こいつはカモだな、とか、こいつは手強そうだな、とか、無意識に弁別している自分がいるのだ(笑)。

インドからはもう離れようかな、といく度も思ったものだけれど、夕刻の散歩のたびにこうした光景を見せつけられては、なかなかそうもいかないらしい。
何の因果か、インドへの旅はまだまだつづくようだ。

# by koikehidefumi | 2011-07-28 15:20 | Trackback | Comments(0)
7/24 新井敏記写真展 「コヨーテ、森を行く」
新井敏記さんの写真展に行った。
会場は御徒町にある家具屋「WOOD WORK」。
「WOOD WORK」の前身は明治三十年に創業した材木屋さんだという。それが「木」と暮らす楽しさより多くの人に知ってもらおうと、自前の工房を設けて家具の製作販売をはじめたらしい。
今回の写真展のフレームももちろんすべてオリジナルの木枠だ。
その木製フレームのシンプルな清々しさと、新井さんが撮影したアラスカの森の凛とした佇まいが見事に調和し、会場全体がとても心地いい空気に包まれていた。

もっとも、それが今回の写真展のテーマだったのだろう。
WEBに掲載された紹介文のなかには次のような言葉が記されている。

「アラスカの森や、森を背景とした大きな自然と共に生きる人々の姿を収めた新井さんの写真と、
木と人との理想的な関係を追求するウッドワークの家具づくりは、
生活の在り方を見直す時期を迎えた今日に於いて、
その答えを導きだす前向きなヒントとして響き合うのではないかと思います」


早いものでアラスカの森を歩いてからもうすぐ三年になろうとしている。
わずか二週間ほどの旅だったけれど、そこで過ごした濃密な時間はいまもかけがえのない記憶として胸に息づいている。だからだろう、こうしてたまに新井さんとお目にかかるたびに、そのときの情景がありありと蘇ってきて懐かしい気持ちになる。

8月8日。写真家星野道夫氏の命日にあわせて今年もアラスカ行きを考えているという新井さん。また新しい物語が紡がれてゆくのを楽しみにしています。
今日は素敵な写真とおいしい珈琲をありがとうございました。

(写真は今年の四月、大阪のphoto gallery Saiで行われた新井敏記写真展・「EDITOR AT WORK - SWITCH PHOTOGRAPHS」の打ち上げより」

# by koikehidefumi | 2011-07-25 06:03 | Trackback | Comments(0)
7/19  アジア的正しい(?)夏の朝の過ごし方
早朝、子供たちを連れて坐禅を組みにいった。
近所の曹洞宗のお寺で毎週坐禅会が開かれており、誰でも自由に参加することができるのだ。もともと坐禅にはまったのは妻の方だった。もう十年ぐらいになるだろうか、出産後はさすがに足が遠のいてたが、ようやくここにきて復帰を果たしたという感じだ。
坐禅、勤行、作務(境内清掃)ののち、朝食である行粥をとる。朝食といっても行住坐臥、つまり生活のすべてが修行だから、子供たちも手を休めることなく大急ぎで粥をかき込んでゆく。

それから、上野の不忍池へ蓮の花を見に行った。
蓮の花はアジア各地でたくさん目にしてきたけれど、朝の澄明な光の中に咲きこぼれるその姿はほんとうにみずみずしく、そしてやさしい。

夏の朝。深く、静かに、アジア的聖性に包まれた一日のはじまりだった。


# by koikehidefumi | 2011-07-19 20:42 | Trackback | Comments(0)
7/16 パウルクレーと石元泰博
パウルクレー展は肩すかしだったけれど、実はこの日の目玉は同館の所蔵作品展の方にあった。
というか、せっかくだからと軽い気持ちでそちらにも足を運んだのだが、なんとそこに石元泰博氏の「桂」が展示されていたのだ。
印刷物はもとより、氏のオリジナルのゼラチンシルバープリントを目にできる機会はそう多くない。
15点ほどだったけれど食い入るように見入ってしまった。

桂離宮は、書院、茶屋、回遊式庭園から成る十七世紀に造営された別荘家屋だ。
かつてそこは観月を楽しむ場でもあり、月という未知なる世界と人間とを結ぶ境界でもあったという。
その月という謎めいた存在に対して、人々はたたずまいをただし謙虚に相対していたはずだ。その凛とした空間の気配が、石元氏の理知的で完璧な構図の中からひしひしと伝わってくる。

「芸術とは目に見えるものの再現ではなく、見えるようにすることである」
もしそうだとすれば、もっとも重要なことは、自らの主義主張を抑え、その対象をどれだけ明晰かつ微細な意識で見ることができるかどうか、それにかかっているのではないか。
石元氏の写真を見ていると、そんな思いがこみ上げてくる。
とりわけ震災関連の大仰な写真に取り巻かれていると、なおさらそう強く感じてしまう。

くしくもパウルクレーも石元氏もバウハウスの流れを汲む方々だ。
感情の動きを抑え、わずかな気配を感じ取れる繊細な感覚を持つことが、いつの日か私にもできるようになるのだろうか。


# by koikehidefumi | 2011-07-16 06:55 | Trackback | Comments(0)
7/15 パウルクレー展
国立近代美術館で開催中の「パウル・クレー / おわらないアトリエ」展に行く。
絵画についてはほとんど門外漢だけれど、パウルクレーは大好きな画家だ。
とくに十数年前、東京Bunkamura-ザ、ミュージアムで見た展示はほんとうに素晴らしいものだった。
「死と浄火」をはじめ、色彩豊かな代表作が並んでいたせいもあったのだろうが、その抽象的な線描から、霊的な気配のようなものが伝わってきてぞくぞくしたのをよく覚えている。
まだカメラを手にする前のことだ。

そして、数年前の大丸ミュージアムの展示も良かった。
「芸術とは目に見えるものの再現ではなく、見えるようにすることである」
あの有名な(?)彼の言葉にはじめて接したのもこのときだった。
こうして改めて振り返ってみると、人生の小さな節目ごとに彼の作品とは接してきたような気がする。

そのようなわけで今日も楽しみに足を運んだのだが、残念ながら肩すかしをくってしまったようだ。
今回の展示はパウルクレーの技法に着目し、彼の創造の過程に迫るのがテーマだという。その狙いは悪くはないのだろうが、ただ技法によって絵を分別し、製作のプロセスを説明的に並べられてしまうと、見る方も分析的かつ学究的に絵と接してしまう。キューレターの恣意にどうしてもひきづられてしまうのだ。そんな頭でっかちな教養ではなく、彼の作品からは霊的気配にぞくぞくするような体験を授かりたいと思ったのだけれど。

「僕はただ線で描く。物質のくびきから解き放たれた、純粋な精神の表象である線を用いて描く」

近代美術館は前回の岡本太郎展に続いて今回もいまいちぐっとこなかった。
純粋な精神と交感するのはほんとうに難しい。


# by koikehidefumi | 2011-07-15 19:42 | Trackback | Comments(0)
7/12 クラレンスクレモンズ追悼に寄せて。
音が音としておとなしく音の世界だけにとどまっているのではつまらないじゃないか。
音楽に込められた音が音であることをやめて、肉体的世界に踊り出し野生のケモノのように人を挑発し翻弄し誘惑し、手痛い傷を負わせることをわれわれは歓迎したかった。

ABC「本の島」イベント菅啓次郎さんの言葉より抜粋。
とても素敵なので原文の「本」の箇所を「音」に変更させていただきました。

# by koikehidefumi | 2011-07-12 06:46 | Trackback | Comments(0)
7/10   レディガガとクラレンス・クレモンズ
写真の現像をしながらjwave tokyo hot 100を聴いていると、今週の第一位ということでLADY GAGAのTHE EDGE OF GLORYが流れはじめる。
その選曲に何の異論もないのだけれど、間奏に入ったところで突如DJがカットインしてくるのはなんとかならないのか。
当然この曲は現在へビーローテンションとなっている。
それがまるで申し合わせたように、間奏に入ったところですっーと打ち切られてしまうのだ。
間奏には先月亡くなった、あのクレランス・クレモンズのSAXソロがフューチャーされているというのに !!
まったく失礼千万な話だ。

あまりに腹立たしいので、いまYou tubeで彼の演奏を改めて聴いたいたのだけれど、高校時代にあの音に出会っていなければ、こんなドロップアウトした生き方を選んでいなかったのではないか、とふと思ってしまったほど強烈のひとこと。
とくに反核を謳い4日間に25万人を動員した伝説のNO NUKESライブなど、まさに魂が音に乗り移っているとしかいいようがない。

なんとかならないのかJWAVE!

ご冥福を心よりお祈りいたします。


# by koikehidefumi | 2011-07-10 18:32 | Trackback | Comments(0)
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