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先日の三連休は天候にも恵まれ爽やかな気持ちで過ごすことができた。 なかなか行けなかった川内倫子写真展にもようやく足を運ぶことができた。 会場となった東京都写真美術館には本当に大勢の人々がつめかけていた。 ポストカードや図録を扱う一階のショップも大盛況。写真集の棚の前などは結構な人だかりができており、もしかしたら写真って人気ジャンルなの?!と思わず錯覚しそうなほどだった。ちなみに写真展の方は映像が良かった。 東京都写真美術館のある恵比寿からの帰路、自転車で青山霊園を抜ける。 真夏を思わせる暑さのなか、霊園に入るとすっと気温が下がり、樹々を吹き抜ける風が心地いい。 思えば都心のド真ん中にこんな広大な森があるというのも不思議なものだ。 六本木通りの喧噪が嘘のように静まり、風音や蝉の音が耳元で高鳴ってゆく。 それと同時にアスファルトの輻射熱が弱まり、土と植物の湿気が足下から這いのぼってくる。樹々の梢越しに見える青空が広い。爽快な気分でペダルを漕いでいると、ここが都内であることを一瞬忘れてしまいそうになる。 やがて自転車は赤坂消防署の前をすり抜け、霊園をあとにしてゆく。 青山通りに出ると人と自動車の流れが一気に押し寄せ、日常の感覚が全身によみがえってくる。むっとした熱風が顔面に吹き付ける。しかしなぜだろう、霊園内の静けさに数分のあいだ包まれていただけで、まるで長いトンネルを抜けたかのように眼前の日常風景が妙に新鮮に感じられてしまうから不思議だ。 この静から動への転換はどこかで経験したものだなぁ、とペダルを漕ぎながら記憶をたどってゆくと、やはりそれはインドなのだった。 ガンジス川に舟を漕ぎ出し対岸から戻ってくると、帰ってきたなぁという感覚にとらわれる。とくに死体を静謐な水面に放ってのち此岸に戻ってきたりすると、異界と世間との境界が曖昧になって、彼岸からの風がふっと首筋を吹き抜けてゆくように感じられることがある。 ずいぶん前のことになるけれど、その越境感覚をなんとか写真に定着することはできないか、と青山霊園をはじめ谷中や雑司ヶ谷などの墓地を撮影して回ったことがある。 だが、しばらくして行き詰まってしまった。 表現しようという下心をもって異界と往還しようとしたのがそもそも間違いのようだった。 いや、原因はもっとシンプルかもしれない。力量が足りなかったのだ。技術も意識もまるで未熟だったのである。外国に行ってちょっと珍しい習俗や自然や子供なんぞをパシャパシャ撮って、はい写真家ですなんてうそぶいてしまう底の浅い人間に、世界の奥行きが写し取れるはずないではないか。 ぼくにとって異界と日常を越境する写真家の筆頭は、先日亡くなった深瀬昌久氏だ。5年ほど前にラットホールギャラリーで見た「鴉」の展示はまさに戦慄的だった。 われわれが生きる日常社会とは生者だけで構成されているわけではない。 死がしのび込んでくる静けさのなかに人々の営みは存在しているのである。 「生」と「死」が別の次元ではなく、同じ時間のなかに交錯していることをその写真群は語っていた。 魂という身体や生命を超越する何かがあるかどうかはぼくにはわからないけれど、間違いなくその写真群はぼくの魂のどこかに刷り込まれてしまったようで、いまも日常生活のなかに、あの不気味なシルエットが不意に浮かんでくることがある。死の力に突き動かされることによって発せられる霊的な気配とともに。 そして、それ以来かもしれない。 先日蒼穹舎ギャラリーで観た染谷學さんの「道の記」は凄かった。 そこに映し出されていたのは、われわれの何気ない日常にぽっかりと空いた異界への通路だった(…と感じた)。 すれ違う男と女はまるで彼岸と此岸を行き交う越境者のようだったし、さらには、風に逆巻く女の黒髪に映える微細な光や、埠頭にたたずむ人々の視線の先には、異界への入り口がぼこりと口をあけていたのである(…と感じた)。 生きている人間だけではなく、社会の構成メンバーの中に自然や死者を含めるのが日本人の社会観というものかもしれない。だから写真においても、死者を弔う祭礼や、墓所や、あるいは死者そのものを撮った作品がないわけでない。だが、どれも現実をただなぞったようなものばかりで、その背後に広がるもうひとつの時間を垣間見せてくれる作品というのは本当に少ない。それはつまり、本物の写真家が少ないというところに収斂されてゆくのだろうが、そのなかで氏の作品は視線の射程がまったく違う。前作の「ニライ」もそうだったが、その視線は日常をつらぬきながら外へ外へと、より広大無辺な無窮の世界へと延びてゆく。 そんなことを考えながら、外苑東通りを北へ向かって自転車を漕いでいたのだけれど、それにしても外国に行ってちょっと珍しい習俗や自然や子供なんぞをパシャパシャ撮って悦に入っている者からすれば、そのステージの違いにペダルを漕ぐ力も萎えてゆくのだった。 それで四ツ谷三丁目の交差点を蒼穹社方面に左折しようかとも思ったのだけれど、こんな話をして面倒くさい来訪者の烙印を押されるのも気が引けたので、おとなしく自宅のある護国寺方面に直進することにする。 ちなみに、先日居酒屋で呑んだ際に聞いたところによると、「道の記」のシリーズはこれからまだまだ続いてゆくのだという。死の力はさらに人を終わりのない行為へと再出発させてゆくのだろう。 (必見。7月22日まで) ![]()
by koikehidefumi
| 2012-07-19 21:11
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