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先日、詩人の荒川洋治さんが、文学談義というテーマを通して、他者との対話について次のように述べられていた。「知る、わかる、終わる、の時代に、それとはちがう、やわらかな空気が生まれる」。 以前、ここにも少し書いたけれど、いま、11月に予定しているイベントの打ち合わせをメールで行っている。テーマを簡明に言えば、森の再生プロジェクトということになる。発端や詳細は正式決定後としたいが、内容的には、いま日本の森で樹木の立ち枯れ現象が進んでおり、その現状を告知し、少しでも多くの人に関心をもってもらえれば、という趣旨だ。勉強会のようなものにはしたくないので、旅先の写真(アラスカやインド)のスライドショーや、その土地における人間と森との繋がりを神話を交えて語ったりと、いまいろいろとアイディアを出し合っているところだ。 森についてはぼくも知らないことばかりだ。だから準備しなければならないことがたくさんあるのだが、イベントについてのメールを交わしながら、ひとつだけ気にかかっていることがあった。 誤解をおそれずに言えば、その立ち枯れは本当に人為的環境破壊によってもたらされたものなのか、ということだ。もちろん、現代の文明社会がそれに少なからぬ影響を及ぼしているのはほぼ間違いないだろう。しかし、そこに自然界の目に見えないメカニズムが働いている可能性は本当にないのか。また、その「死」は、有機物や無機物を含めた上での、何ものかの他者の「生」の拠りどころにはなってはいないだろうか。 たとえば、縞枯れ現象というものがある。亜高山帯の針葉樹林の一部が帯状に立ち枯れる現象のことで、日本では奥日光や南アルプスなどで見受けられる。もっとも北八ヶ岳にはそれにちなんで縞枯山と名付けられた山もあるほどだから、必ずしも稀な現象というわけではない。ただし原因は謎に包まれている。仮説はいろいろあるようだが、山火事と同様で、それが森林の生命力を保つための、自浄作用の役割を果たしていることは間違いないようだ。さらにその立ち枯れ現象は、帯状のまま山を移動してゆくのだという。つまり恒常的に移動することによって、土壌を日光にさらし、新たな幼木を林床に育み、森を再生してゆくのである。 それを知ったのはもう数年前のことだけど、生と死を内包した自然界のその精妙なメカニズムに、鳥肌が立つような畏敬の念を抱いたのをよく覚えている。自然を相手に、さあ仲良く共存しましょうなどと申し入れているのは、まさに人間の方だけであって、自然はなにも人間のことなどまったく必要としていないのではないか。そもそも地球には46億年を生き抜いて来た生命原理があるのだ。それをたかだか700万年ほどの人間が、解釈するとか、理解するとか、あるいは救うとか口にするのも、ちょっとおこがましい気分についなってきてしまう。 そうした考えもあって、森の再生プロジェクトに関しても、あまり一方的な環境保護的なものになってしまうとしんどいなぁという逡巡がどこかにあった。たしかに、ぼくも発案者たちと一緒にこの夏立ち枯れの風景を目にしてきた。それは白骨累々といった眺望だった。眺めているとさまざまな感情が襲って来た。さて、自分はなにをすべきだろうか、と考えた。 それが今回のことに繋がってきたわけだけど、このイベントにはいわゆる草の根運動的な意味合いも含まれている。むろんぼくも調査分析で終わらせるのではなく、具体的行動が伴わなければ面白くないと思っている。しかし、なおかつそれでも、知った気になる、わかった気になる、それだけは慎みたいと思っている。なにしろ自然が相手なのだ。たとえば、地球の温暖化にしたって、氷河期と間氷期を巡る大きなスパイラルに人間が翻弄されているだけかも知れない。そうした可能性だって少なからずあるはずだ。それを看過してしまうと、話が悲観と情緒に覆われて袋小路に入るだけだし、発展的なダイナミズムが乏しくなってゆくだけだろう。 知る、わかる、終わるの時代。詩人の言葉とは実に直感的かつ的確なものだ。荒川洋治さんの言葉に深くうなずきながら、対話をするためにイベントに参加する、それでいいのではないか、と改めて思いはじめている。もしかしたらそこに答えはないかもしれない。けれども精妙に導かれたこの関係性のなかで、自分も変化し、相手も変化し、森も変化するかもしれない。性急に答えを求めるのではなく、こうして足掻き続ける営みや、反復される試みが、過去から未来へ続くいのちの流れとなって、新たな神話をゆっくり芽吹かせてゆけばいいなと思う。 ![]()
by koikehidefumi
| 2007-10-03 07:29
| 神話の森
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