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昨々夜、鬼子母神の祭り(御会式)に行った。前回のブログに祭りのことを書いたばかりだったし、アップした写真もかなりベタだったので、自転車で現地に向かうさなかリベンジに赴くような気分があった。 さきほど撮り終えたものに目を通したのだが、確認作業を通じていろいろなことを考えさせられた。これは前回の続きになるけれど、被写体として祭りに興味が湧かないのは、ひとつには撮る者と撮られる者との関係が、あまりに親和的に過ぎるからではないか、とまず思った。 つまり祭りの参加者とはハレのステージの主役であり、写真に撮られることなどとうに織り込み済みなのである。おそらくそれにカタルシスを感じている人も多いのではないだろうか。だから、撮る方も気兼ねなくシャッターを押せるし、スナップにおける他者との緊張感もそこには発生しない。 そこがぼくにはなんとも食い足りないのだ。寄るのか引くのか。微笑まれるのか殴られるのか。それでも一歩踏み込むべきなのか。踏み込んだ果てのリスクはなんなのか。この相手は何者なのか。胸を開くべきなのかそれともすれ違えばよいのか。 対象との距離とそこに生じる緊張感。つまり自然であれ人物であれ、他者は他者として不可知な存在としてあって、そこに自分はどう介在してゆこうとしているのか。世界とどうきり結ばれたいのか。その姿勢。あるいは眼差し。それが自分にとっての写真行為そのものなのだと、今回祭りを撮りながら改めて認識させられた気がする。 撮り手と被写体は共犯関係にあるのだなぁ、とつくづく思う。そこに一定の緊張感が漲らなくては、写真が弛緩してしまうのは当然のことではないか。 弛緩した写真は弛緩した日常の一服の清涼剤となる。しかし、それは昨日までの自分の価値意識を爆破してしまうような、魂の爆弾には決してならないのだ。 とりあえず今日も、非日常的予定調和的直球写真の数々を。
by koikehidefumi
| 2007-10-20 15:47
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