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![]() 以前チベット問題について記したときもそうだったけれど、時局的なことや社会全体にまつわることを大文字で語ると、のちにその反動から気分が萎えてしまうことがある。書く気力が鈍ったり、ときには記述している最中から肥大化した自我みたいなものがひどくうっとうしくなりはじめ、思考回路がぷつりと遮断されてしまう。 だからチベット問題についても続きがかなりの分量あったのだけれど、アップする前にすべて削除してしまった。客観的に分析して意見するのも身に余ることだし、論を展開するにしても、結局はそれも当該問題を引き合いに出して自己中毒に陥っているだけではないか、と思えはじめてしまったから。 そんなわけで日々ニュースに接しつつ、口ごもるようにあれやこれやと雑感を抱いていたのだけれど、成田で行われたダライラマの会見と、世界各地の聖火リレーに対する抗議行動を昨日テレビで改めて見ていたとき、正論とは何か、というところにふっと思いが及んだ。 というのも、先日あるところで打ち合わせを終えたのち、話題がチベット問題に及んだことがあった。その場に居合わせたのはぼくを含めて4人だったのだけれど、たったそれだけの人数でも意見の中身にはさまざまな相違点が見受けられた。もちろん違う人間同士なのだから、考えに相違があるのは当然のことだろう。ましてやそこに優劣や正誤が存在するとは決して思っていない。 むしろ最近は、意見の相違そのものよりも、それがどのような背景や奥行きを持ち、またどのような思考の筋道をたどってきたものなのか、というところがとても気になるようになった。それが批判のための批判であったり、いわゆるコミュニケーションスキルとしてのひとつのツールであったりすると、こちらもそれに同調してつい不毛な言葉を吐き続け、ついには自己嫌悪に陥ってしまったりするからだ。 あるいはそれとは対照的に、自分の言葉に誠心誠意全体重を預けているのだけれど、「これが正論です」とあまりに平板で硬直した物言いに終始されて弱ってしまうこともある。言葉を探しあぐねた末に、会話が一向に深まってゆかずに徒労感ばかりが募ってしまうから。 で、そもそも「正論」とはなんなのだろうか。たとえば、今回のチベット問題についてをいえば、中国侵攻以来虐殺されたチベット人の数は約120万人にものぼるといわれている。また8千以上あった寺院の約9割が破壊され、それ以外にも産児制限によるチベット族の断種、宗教的自由の剥奪、食物の収奪、チベット人居住区の破壊、核廃棄物の投棄、自然資源の略奪など、中国の統治政策はきわめて非道だとされている。 それに対して現状を変えてゆこう、強引な統治をやめさせよう。 おそらくそこまでは、情報統制下にある中国の人々をのぞけば、誰もが納得しうる「正論」だろう。 だが、問題なのはそこから先だ。これが具体的な方法論となると、意見はまったく分かれてくる。抗議デモなのか対話なのか。あるいは国益優先なのか倫理優先なのか。また倫理優先を選んだ場合でも、キリスト教的世界観と仏教的世界観とでは、おのずと「正論」も異なってくるだろう。 聖火リレーの件にしても、とりわけフランスの映像などは、さすがに革命を経てきた国民の問題意識と行動力は凄いな、と思わせるところがある。だがその反面、あのアフガニスタンやイラクを悪の枢軸と決めつけたような、お決まりの二項対立の図式に今回の問題も組み込もうとしているだけではないか、とも見えてきてしまう。 実際に中国のインターネット上では、いま反仏感情がひどく高まっているらしい。たしかにあの映像をある情報統制下で見せつけられたとしたら、反発したくなるのもわかるような気もする。もっとも、中国に報道の自由がないのと同様に、西欧にも厳密な意味での報道の自由はないかもしれない。それは湾岸戦争やさきのイラク戦争を見れば誰の目にも明らかかもしれない。にも関わらず、不思議なことに、中国側が発表するラサの映像には懐疑的なまなざしを向ける人も、聖火リレーの混乱などは結構無防備に受け入れてしまったりもする。西欧メディア独自のバイアスがそこには少なからずかかっているはずなのに。 結局のところ、西欧の正論とイスラムの正論が相容れることなく対立を激化させていったのと同じことが、今度は中国相手に行われているだけではないのか。そして、この流れのままでゆくと、世界の原理主義的対立はいっそう激化してゆくだけではないのか。 そうした思いを抱きながらダライラマの会見を目にしたのだけれど、あくまでも対話の中に可能性を見出そうとするその姿勢は、これまでとまったくブレがなかった。「私は反中国の立場ではない」「チベットは中国の一部である」と言明する姿は、原理主義的発想とはまるで対極に位置するものに感じられた。主張や正論を直線的に述べるのではなく、問題に補助線を入れ、機微を読み、新しい存在の可能性を模索してゆく。その柔軟な発想と受容的な笑顔は、平板な正論など易々と飲み下してしまう凄みさえ感じられるものとぼくには映った。 以前このブログ(3/29)にも書いた「目覚めよ仏教」の中に、『慈悲をもって怒れ』という章がある。これなどまさに心の表裏をひとつに重ねた言葉だけれど、相反するものを対抗軸と見なすのではなく、どちらも内在させ発展させてゆくことが、世界を多様で奥深いものにしてゆくのではないか。独立か否か、賛成か反対か、と性急に答えを求めるのではなく、根気よく試行錯誤を繰り返してゆくこと。それが二元論や正論から離れ、硬直した原理主義とは対照的な、新たな世界観を構築してみせる可能性を孕んでいるのではないか、と改めて思った。
by koikehidefumi
| 2008-04-14 11:45
| 仏教!?
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