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今日はこれまで何度かこのブログでも紹介してきた、イベントについての告知を。 まず、このイベントの発端は、今夏、アラスカ先住民族の神話の語り部、ボブサム氏のストーリーテリングが奈良の天川村で行われたのがそのはじまりです。 その報告会を東京でもしよう、という流れのなかでお手伝いをさせていただくなかで、しだいにひとつのイベントとして出演者もとても素敵なものになってゆき、それではせっかくなので一般告知もしよう、という運びになったしだいです。 そもそもこのブログ自体が、友人ひとりだけに茶飲み話として伝えた以外はなんの告知もリンクも貼っていないのに、どうしたことかありがたいことに毎日一定数のアクセスがある。こんな詮無い内容のものをどなたが読まれているのかはわかりませんが、もしご興味があれば、以下をご確認のうえ、ご連絡いただければと思います。 ちなみに、このイベントについてぼく自身どう捉えようとしているかは、10月3日の当ブログにアップしていますので、もしよろしければご参照ください。 ☆ VOICE OF THE MYTH 〜神話の森の再生のために〜 ☆ むかしむかし神話の時代、森は人々にとって特別な場所でした。 森の中に入るとき、人々は森の精霊とある約束を交わさなければなりませんでした。 それは、「森に暮らすイノチとひとつになる」ことでした。 私たちはそうやって森と共に生きてきたはずです。 森と人間との距離はいつからこんなに遠くなってしまったのでしょう。 『生きる』ということは、イノチの連鎖。生かされているという 謙虚さを忘れた私たちは、いま神話の森を失いつつあります。 晩秋の夜長、神話の森をもう一度取り戻しに出かけてみませんか。 【日時】 11月10日(土)17時30分開場、18時開演 【場所】 食堂 アンチヘブリンガン 東京都千代田区猿楽町2-7-11 ハマダビルヂング2階 TEL 03-5280-6678 【参加費】 1000円 イベント終了後の交流会(ワンドリンク、軽食付き)を2000円で実施します。 お時間のある方はぜひご参加ください。 【定員】 24名 【プログラム内容(予定)】 ●2007年8月に開催された奈良県・天川村での 「神話の森の再生のために」イベント報告会(赤阪友昭) ●日本とアラスカの神話(赤阪友昭) ●「いのちの流れ」をテーマとした、 スライド上映と詩の朗読と音(小池英文・高橋洋之) ●「神話の森」をテーマとしたダンス(石井かほる) ● 「神話」「森」をテーマとした三線演奏(矢島敏・稲葉友子) ●イベント終了後、交流会(食堂 アンチヘブリンガンにて) 【お申し込み・お問い合わせ】 参加希望の方は、以下のフォーマットをコピー&ペーストで メール本文に貼り付け、ご記入のうえ送信ください。 件名:11/10日イベント申し込み 本文(以下をコピー&ペーストし、ご記入下さい) ************************ お名前: ふりがな: 連絡先(携帯電話): * *********************** ![]() ▲
by koikehidefumi
| 2007-11-05 12:18
| 神話の森
森について / 山尾三省 森は 土と樹々をかかえて 沈黙しつつ 生きている 人は その森に帰る 森は ひとつの大きな闇であり 慈悲である 人は そこに帰る 森の底には 水が流れている その水もまた 森である 人は そこに帰る その森に帰る 故山尾三省さんの詩。11月に予定しているイベントの詳細がだいぶ決まってきて、ぼくはスライドと音を絡めたポエトリーリーディングをやろうと考えているのだが、そこでは山尾三省氏の詩を中心に据えてゆこうと考えている。 森羅万象に向き合う個人が、その中の一象に意味性や喜びとしてのカミを見いだし、それを他者と共有していく新しいアニミズム思想。 山尾さんの詩には、まさにこれからの時代を立て直していく鍵となる普遍性が宿っていると感じる。 イベントを機に、ぼく自身、彼の詩と、そこに込められた祈りを、いま一度自らに深く写実できればな、と考えている。 ▲
by koikehidefumi
| 2007-10-23 09:14
| 神話の森
先日、詩人の荒川洋治さんが、文学談義というテーマを通して、他者との対話について次のように述べられていた。「知る、わかる、終わる、の時代に、それとはちがう、やわらかな空気が生まれる」。 以前、ここにも少し書いたけれど、いま、11月に予定しているイベントの打ち合わせをメールで行っている。テーマを簡明に言えば、森の再生プロジェクトということになる。発端や詳細は正式決定後としたいが、内容的には、いま日本の森で樹木の立ち枯れ現象が進んでおり、その現状を告知し、少しでも多くの人に関心をもってもらえれば、という趣旨だ。勉強会のようなものにはしたくないので、旅先の写真(アラスカやインド)のスライドショーや、その土地における人間と森との繋がりを神話を交えて語ったりと、いまいろいろとアイディアを出し合っているところだ。 森についてはぼくも知らないことばかりだ。だから準備しなければならないことがたくさんあるのだが、イベントについてのメールを交わしながら、ひとつだけ気にかかっていることがあった。 誤解をおそれずに言えば、その立ち枯れは本当に人為的環境破壊によってもたらされたものなのか、ということだ。もちろん、現代の文明社会がそれに少なからぬ影響を及ぼしているのはほぼ間違いないだろう。しかし、そこに自然界の目に見えないメカニズムが働いている可能性は本当にないのか。また、その「死」は、有機物や無機物を含めた上での、何ものかの他者の「生」の拠りどころにはなってはいないだろうか。 たとえば、縞枯れ現象というものがある。亜高山帯の針葉樹林の一部が帯状に立ち枯れる現象のことで、日本では奥日光や南アルプスなどで見受けられる。もっとも北八ヶ岳にはそれにちなんで縞枯山と名付けられた山もあるほどだから、必ずしも稀な現象というわけではない。ただし原因は謎に包まれている。仮説はいろいろあるようだが、山火事と同様で、それが森林の生命力を保つための、自浄作用の役割を果たしていることは間違いないようだ。さらにその立ち枯れ現象は、帯状のまま山を移動してゆくのだという。つまり恒常的に移動することによって、土壌を日光にさらし、新たな幼木を林床に育み、森を再生してゆくのである。 それを知ったのはもう数年前のことだけど、生と死を内包した自然界のその精妙なメカニズムに、鳥肌が立つような畏敬の念を抱いたのをよく覚えている。自然を相手に、さあ仲良く共存しましょうなどと申し入れているのは、まさに人間の方だけであって、自然はなにも人間のことなどまったく必要としていないのではないか。そもそも地球には46億年を生き抜いて来た生命原理があるのだ。それをたかだか700万年ほどの人間が、解釈するとか、理解するとか、あるいは救うとか口にするのも、ちょっとおこがましい気分についなってきてしまう。 そうした考えもあって、森の再生プロジェクトに関しても、あまり一方的な環境保護的なものになってしまうとしんどいなぁという逡巡がどこかにあった。たしかに、ぼくも発案者たちと一緒にこの夏立ち枯れの風景を目にしてきた。それは白骨累々といった眺望だった。眺めているとさまざまな感情が襲って来た。さて、自分はなにをすべきだろうか、と考えた。 それが今回のことに繋がってきたわけだけど、このイベントにはいわゆる草の根運動的な意味合いも含まれている。むろんぼくも調査分析で終わらせるのではなく、具体的行動が伴わなければ面白くないと思っている。しかし、なおかつそれでも、知った気になる、わかった気になる、それだけは慎みたいと思っている。なにしろ自然が相手なのだ。たとえば、地球の温暖化にしたって、氷河期と間氷期を巡る大きなスパイラルに人間が翻弄されているだけかも知れない。そうした可能性だって少なからずあるはずだ。それを看過してしまうと、話が悲観と情緒に覆われて袋小路に入るだけだし、発展的なダイナミズムが乏しくなってゆくだけだろう。 知る、わかる、終わるの時代。詩人の言葉とは実に直感的かつ的確なものだ。荒川洋治さんの言葉に深くうなずきながら、対話をするためにイベントに参加する、それでいいのではないか、と改めて思いはじめている。もしかしたらそこに答えはないかもしれない。けれども精妙に導かれたこの関係性のなかで、自分も変化し、相手も変化し、森も変化するかもしれない。性急に答えを求めるのではなく、こうして足掻き続ける営みや、反復される試みが、過去から未来へ続くいのちの流れとなって、新たな神話をゆっくり芽吹かせてゆけばいいなと思う。 ![]() ▲
by koikehidefumi
| 2007-10-03 07:29
| 神話の森
昨夜は麻布十番である写真家と数人の編集者と飲んだ。日本の森の現状について、そして表現に携わる者としてそれとどうコミットしてゆけばよいのか、そんなことについてざっくばらんに語り合った。森林の伐採、枯渇、あるいは酸性雨や温暖化。先入観にとらわれず、もう一度深く考えてみる必要性を個人的に感じた。 またこれはぼくのような門外漢が言うことではないかもしれないけれど、その伝え方というものがとりわけ重要な気もする。なぜなら、森の枯渇も酸性雨もよくないということは、誰にでも判断がつく内容だからだ。問題なのは、それをいかにすればわたくしごととして捉えてもらえるか。それにかかっている。そのためにはまず個々の心に蔓延するニヒリズムを打ち壊してゆくこと。それを念頭に進めてゆかなければ意味をなしてゆかないだろう。 とりあえず11月に関連イベントが予定されており、ぼくも参加させていただくことにした。詳細はまだ未定だが、そこで何をするのかこれから考えてゆかなければならない。 ▲
by koikehidefumi
| 2007-09-21 07:40
| 神話の森
昨日の続きになるけれど、メールで写真を送ってくれた編集者と出会ったのは、この夏のあるイベントでのことだった。写真家・星野道夫氏の十三回忌に合わせて、アラスカにトーテムポールを建てるというプロジェクトが進んでいる。 http://www.switch-pub.co.jp/totempole/ttpp/00/index.html その発起人であるボブサム氏が今夏来日し、神話の朗読を中心に日本各地でイベントが開催されたのだが、その中のひとつに奈良の天川村で催されたものがあり、それにぼくは参加したのだった。 ボブ氏の朗読を聞くのはこれが三度目のことになる。これまでは二度とも東京の室内ホールでのことだったが、今回は風が吹き抜ける開けた空間であり、いままでとはまたひと味違う感慨に包まれた。しかもちょうど会のはじまりが宵の帳が降りる頃とあって、アラスカ神話を語るボブの向こうには紀伊の山並みがうっすらと闇に浮かび立っており、その自然の演出の妙に息を呑まされたものだった。 そもそも天川村、及びその周縁は、知る人ぞ知るいにしえからの霊地として多くの神話に彩られた土地だ。修験道発祥の地である大峯山、芸能の神様として有名な天河大弁財天社など、そこは隣接する熊野、吉野と並んで日本文化の古層に触れられる場所である。実はぼくが天川を訪れるのも今回で二回目だ。以前友人が村の民宿で住み込みで働いており、そこを十数年前に尋ねている。現状はよく知らないけれど、当時はオカルト神秘好きやヒッピー系の人々がそこには集まっており、ぼくの友人も立派な反西洋文明思想の持ち主だった。 僕はスピリチュアルとか神秘とか言われると耳が逆らってしまう方だけれど、ときあたかもバブル崩壊直後、そういった物質文明に反旗を翻している面々には興味があった。実際、同宿の相部屋だった学生が「僕はテクノヒッピーなんですよ」とか言いながらマリファナを夜通しふかし続けていたり、自給自足的なコミューン生活を送る人々と巡り会ったり、それはそれで楽しい旅であり、もしかしたらその後のぼくの生活にわずかなりとも影響を与えているかもしれない。 ちなみに僕の友人は、その後インドに赴き、ビザも切れてパスポートも捨ててしまい不法滞在を続けていたが、あるとき警察のごやっかいになり、強制送還され帰国を果たすというなかなか時代錯誤的、というかヒッピー的な旅のあり様を実践してくれた(笑)。 そう、神話とは、スピリチュアルとは、そして、あの9.11とは、そういったことや繋がりを書こうかと漠然と思っていたのだが、話が妙な方向に展開してしまった。しかしそれもまぁよしとして、あえて修正せずにこのままアップしてしまおう。 結局のところ、9.11がわたくしごととして本当に問題意識に上っていたら、何を差し置いても書いたことだろう。それをジャーナリストぶって問題意識とネタとをはき違え、わかったようなことを書き連ねたとしても、それはきっと予定調和の提灯記事にしかならないだろうから。 ▲
by koikehidefumi
| 2007-09-11 11:33
| 神話の森
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