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銀座の画廊で知人の個展を見た帰りにニコンサロンに立ち寄ると、石田 紘一展[山襞の村物語 —北上1963〜73—]というのが行われており、これが日本の農村の原風景というか、あっけらかんと明るく濃密な情念みたいなものが匂い立つ展示で、思わず目を奪われた。 撮影場所は岩手県北上山系の北部に位置する「安家(アッカ)」とその周辺の村々。 撮影当時日本はオリンピック開催に伴って経済発展期にあり、そこはその辺境ぶりから「日本のチベット」と呼ばれ、マスコミでも話題になったらしい。 ちなみに会期は7月7日までだから、残念ながらもう終了してしまったようだ。 ![]() 作者のプロフィールに目を通すと、インドの写真集なども出版されており、ぼくが無知なだけかもしれないが改めてその眼差しの背後にあるものに興味を持った。 インドを撮影してきた写真家というのはそれこそ大勢いるわけだけれど、そのスタイルや手法は違えど対象に向かう座標軸というか世界観に共通なところがあるのか、いいなぁと思って辿ってゆくとインドを経ている方というのが結構いる。 たとえば「ぺるそな」の鬼海さんなんかがまさにそうだ。 インドを経て日本とどうコミットしてゆくのか。 混沌とエネルギッシュとか、「死」を再認識して自分の価値観を疑うとか、自分探しとか、そういったいまや手垢のついた語り口ではないところでの表現、あるいは記録。 手探りをしつつコツコツと続けてゆくしかないのだろうなぁ、と改めて思うのだった。 ▲
by koikehidefumi
| 2009-07-09 09:21
| アジア
現在製作中の自分のサイトのコンテンツのひとつである「ガンジス河」について、日々写真をセレクトしたり原稿を書いたりしているのだけれど、全体のトーンがようやく見えてきた。 逆にいえば基調をなすトーンからはずれてしまう写真も明確になってきたわけで、そこで今日から数回に分けて、今後サイトにアップ予定の原稿とともに、ここではセレクトから外れた写真を順次掲載してゆきたいと思います。 写真と文章の文脈がずれていたり、編集的に(?)だったり、あるいはこんな写真も撮るんだね、みたいな部分もきっとでてくるだろうけど、とりあえず、はじめてみよう。 まずはガンジスの源流から。 今回はいつになく真正面からの風景写真をメインに。 ここまで揃えると何か他人の写真群を見ているようで、とても不思議な気分だ。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ ガンジスを巡る旅は、十月半ばの冬のヒマラヤからはじまった。 本来ガンジスの水源は、ゴームクと名付けられた氷河末端だとされている。だがさらにその深奥に、アカーシャガンガー(天上のガンジス)と呼ばれる小さなせせらぎが沸き出しているという。その地を目指して、氷河を渡り、クレパスを迂回し、険阻な岩壁を登りつめていった。 ![]() 頭上に浮かぶ雲が、やがてのしかかるように迫り来るのを覚えはじめた頃、とつぜん視界が開け、緑草の生い茂る平坦な土地にたどり着いた。標高約4500メートル、ガンジス河最初の聖地タポヴァンである。 ![]() 鈍色の空のもと、アカーシャガンガーの小さな流れがきらめいている。そしてその細流を中央にして、意思の疎通を図るように二つの高嶺が対峙している。 右手が聖山シヴァ。 左手にバギラッティ山。 ![]() ヒンドゥー神話によると、バギラータ王の祈りを聞き入れたシヴァ神が、天界を流れていたガンジスをこの地に降下させたのだという。 そんな遠い昔日の物語を身近に感じながら、改めてあたりを見渡してみる。無人の荒野にぽつねんと、聖者(サドゥ)と呼ばれる求道者の小屋が見えた。ゆっくり近づいてゆくと、風の音と聞きまごうマントラ(賛歌)が小屋から漏れ聞こえてきた。 ![]() マントラとは、永遠に語り継がれてゆく始源の言葉だ。 そしてガンジス。永劫回帰する水の流れ。 その互いの永遠の一瞬が、 はじめてこの世に交わる場所。 ![]() ガンジス源流。 そこは河のはじまりであるとともに、世界のはじまりをも感じさせる土地だった。 ![]() ▲
by koikehidefumi
| 2008-07-14 23:35
| アジア
Excite エキサイト : 国際ニュース チベット・ラサを旅したのは1995年のことだった。 当時はまだ外国人旅行者に完全に解放されておらず、移動するにも宿に泊まるにも中国公安との間で諍いが耐えない時期だった。 だから夜陰に乗じて検問所を乗り越えたり、チベット人の服装をして公安の目を欺きつつ旅を続けたりしたものだけれど、チベットにおける支配者と被支配者との軋轢については、一介の旅行者ながらおかげで身につまされるものがあった。 中国人民解放軍がチベットに侵攻を開始したのは1951年。そして1965年、中国政府はそれまで独立国家であったチベットを特別自治区として自国領土の一部と宣言する。その混乱の際に隣国インドに亡命し、そこにチベット亡命政府を樹立したのがダライラマ14世だ。 写真は1995年当時のラサの様子。上が歴代のダライラマが暮らしたポタラ宮。下は街の中心にある名刹ジョカン寺(大昭寺)。 ![]() ![]() さて、こんな昔の写真をわざわざ持ち出してきたのは、ほかでもない、チベットやその周縁で起こった抗議活動について改めて考えてみたいと思ったからだ。いや、考えるというよりも、もう少し深く想像を巡らせてみたい、と思ったのだ。 というのも、今回の抗議活動についてはいろいろな論評を目にしたけれど、どれも国際問題として語っているばかりで、チベットそのものやそこに住まう人々の体温が感じられるものはほとんどなかった。 また評論家はともかくとして、個人ブログやいわゆる街の声なども同様で、オリンピックとの関連性を滔々と分析したり、反中感情の素材として安直に利用しているものばかりが目についた。 むろん、それもひとつの見識であり考え方ではあるのだろう。 だが、そうではなく、たとえば、国会議事堂や伊勢神宮や富士山の真正面に他国の戦闘機が据え置かれたならばどんな気持ちがするのか。あるいは、永平寺や高野山の前で他国の警官が群れ集いながらにやにやと目を光らせていたならばどんな気持ちがするのか。 そうした視線があまりに欠落しているのではないか。 自分ごととして捉え、想像を巡らし、そこから考えを紡いでゆかなければ、どこかで誤謬を犯してしまうのではないか。 たとえば、今回のチベット人による「抗議運動」を、「暴動」や 「騒動」となんの衒いもなく形容してしまったりするように。 つまり、想像力の射程があまりにも短すぎる気がするのだ。 おそらくそう感じてしまう背景には、かつて世話になったチベタンの一人ひとりがいまもかの地に暮らしており、その消息が気になることも大きな要因のひとつだろう。とはいえ、いやだからこそ、今回流された生の血というものが、国際情勢を語る素材や、あまりに安直で稚拙な中国批判の片棒を担わされているのをみると、実にやりきれない気持ちになってしまう。 オリンピックとの関連や、それをボイコットすることへの予見や、ダライラマとガンジーとの比較分析や、中国と国際社会とのパワーバランスなどをしたり顔で論じる前に、まず、祖国を失うとはどういうことなのか。銃口に立ち向かうとはどういうことなのか。銃声に倒れるとはどういうことなのか。それを想像するところからはじめるべきではないか。 少し酷いけれど、下の老婆の額に銃剣が突き立てられ、鮮血がほとばしり、路上をのたうち、苦しみこと切れる姿に、想像力の射程を延ばすべきではないか。 そしておそらく、ダライラマはそうした修羅を何度も目撃してきたはずだ。 そのうえで、なおも彼は、今回の抗議運動の収拾に向けて次のように訴えるのである。 「たとえ1000人のチベット人が命を犠牲にしても(独立を)助けることはない。暴力は自殺行為だ」 多くの同胞の死を見据えながらも、そのように語る氏の言葉の重みと痛みについて、いま一度一人ひとりが自らに問うてみるべきではないか。 自らの言葉が、この老婆のまなざしに拮抗しうるものかどうか、いま一度問うてみるべきではないか。 ![]() 「二つの異なった痛みをつなぐのは、私的痛覚を出発点にした他者の痛みへの想像力にほかならない。むろん、おおかたそれは容易に届きはしない。翻って、他者の想像力も私の痛みの核にたやすく達しはすまい。痛みはだから、いつも孤独の底で声を抑えて泣くのだ」(たんば色の覚書 / 辺見庸) ▲
by koikehidefumi
| 2008-03-21 19:47
| アジア
ここのとろころ集中豪雨のような激しい雨に見舞われることが多い。ぼくは自転車での移動が多いのだけれど、最近は土砂降りの雨に足止めされてしまうことがしばしばある。激しく降るのは数分のことで、たいていはすぐに小降りとなる。だからその間は商店の軒先やマンションの玄関口に身を寄せて、ぼんやりと通りを眺めて過ごす。 雨に霞んだ街並みというのは、なにかこう普段とは違った輝きを帯びているように感じられて、見ていて飽きがこない。ずぶ濡れになりながらも喜色満面で歩いてゆく小学生たちや、長いスカートの裾を少したくし上げながら歩いているおばちゃんや、荷車を押しながら全速力で駆けてゆく配送トラックの運転手とかが、なぜかある情感を帯びて目に迫ってくる。 少し小振りになったのを見計らって、再び自転車をこぎだすと、雨宿りをしていたこの数分の間に、自分の内面にもある変化が生じていることに気づく。身を包むじっとりとした重い空気や、遠くから響く雷鳴や、路面から立ち上る蒸れた雨の匂いが、日本の夏も、南アジアのあの熱帯気候に近くなりつつあるのを告げているように思われて、つい嬉しくなってしまう。 今年の東京の夏は猛暑続きで、電力不足などが懸念されたものだが、いまこうして雨に打たれながらクールダウンしてゆく様子は、まさにインドの雨期入りのことを思い起こさせてくれる。 インドの酷暑期は四月と五月。その時期の日中の気温は連日五十度を越え、夜も四十度を下回ればまだいい方だ。そうなってくるともう旅をするとか、写真を撮るとか、うまいものを食べにいくとか、そんなことはもうどうでもよくなって、ただひたすら暑熱に耐えるだけの日々を送ることになる。一日24時間、ふっと息つけるのは、水浴びをしている数分間だけ。 そんな日々の中、やがて六月に入ると、煌々と輝いていた空に雨雲が浮かびだす。そして、湿気を孕んだ熱風が吹き渡ったのち、雨が降る。その悦び、感激、安堵感!。雨期の到来。これで涼しくなる。正気を取り戻せる、夜も眠れる。あれほど雨を待ち焦がれ、その訪れに歓喜したことはない。あれほど自然の恩恵を肌身に感じたことはないかもしれない。ぼくでさえそうなのだから、たとえば農耕に従事している人にとっては、その喜びは計り知れないものだろう。 猛暑も終わり、東京で雨に打たれながら、あのときの感覚を思い出してみる。あの悦び、自然への想い、それをこの東京でも感じられるのであれば、地球温暖化もそう悪いものと決めつけなくてもよいのかも知れない、などと思ってみたりする。 ![]() ▲
by koikehidefumi
| 2007-09-13 07:44
| アジア
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